週末。国道を行きかう車。夜8時30分。
 フェイロンは、タクシーの中で、徐々に速くなる己の動悸を聞いていた。震えが止まらない。
 心の準備はすでにできていたが、やはり体は、「闘い」を前に強張っている。しかしそれは決して「恐れ」ではなかった。彼には強い決意と自身があった。静かに目を閉じ、拳を握り、はやりたつ心を持てあましていた。

 彼はたった今、映画のロケーション撮影を終えたところだった。最後の1カットだ。荒波の砕ける夕暮れの断崖。亡き友の墓標に、勝利の報告をするシーン。彼は見事1テイクで決めた。
 彼には、今日の撮影を1分たりとも引き伸ばす事はできなかった。朝からの彼の集中力はすさまじかった。アクション・シーンはまさに鬼気迫った。スタッフのみなが、並々ならぬ彼の意気ごみを感じ、ハイテンションのまま撮影は進行した。
 みなは、フェイロンの気概にさすがプロと感嘆していたが、彼には予定を引き伸ばせない本当の理由があったのだ。
 撮影終了後にはスタッフと打ち上げパーティーがあるのだが、家に戻る用事があると偽り急いでタクシーを拾った。
 9時までに、香港島のタイガーバーム公園に行かねばならない。
 フェイロンは時計を見た。どうやら時間には間に合いそうだ。少し気持ちが落ち着いたので、視線を外に向けた。
 美しい夜景が見える。なんとはなしに、これまでの自分の事を思い起こしてみた。

 香港生まれの香港育ち。フェイロンは幼い頃からアクションスターに憧れていた。町のカンフー道場には6歳の頃から通い始めていた。
 小柄なフェイロンは、スピードとセンスで大きな相手を翻弄した。彼の技は爽快そのものだった。相手の技のスキをかいくぐり、懐に飛び込んで連続技を素早く叩き込む。その才能は天が与えたものだった。  18歳の時、彼はスタントマンとして映画界に入った。最も手っ取り早かったからだ。雑用や脇役をこなしながら、いつか主役として活躍してやると心に誓っていた。実際、彼の演技には、他の新人にはない光るものがあった。それは気迫であり、自信であり、生来の天才だけが持つ、人を惹き付ける力だった。

 しかし、彼の熱意は空回りした。ひたすら自己の才能をみがく事にかけ、余計な小細工なしで認めてもらおうとする彼のまっすぐすぎる主張は、時として反感を買い、ねたみ・そねみの的となった。
 彼にとっては、コネを利用した出世などに何の興味もなかった。が、この世界でトップをとるには、あらゆる面で計算高くなければならない。
 積極的に演技指導に口を出し、殺陣の立ち回りにアイデアを出してみる。しかし新人の思いつきと一笑に付される。食い下がれば、映画のエの字も知らぬ若造がでしゃばるなと怒鳴られる。もう使ってやらんぞと脅されれば、引き下がるしかなかった。やりたい事をやれぬまま、数年を費やす。彼にとって、歯がみを休めない夜のない数年だった。
 だが、天賦の才はチャンスを引き寄せた。彼の言い分を取り入れる助監督に巡り合えた。
「おまえの、好きな様にやってみろ」
 5人を相手に立ち回るシーンだ。追いつめられ、最後には倒される役どころ。本来、複数のカットを別撮りし、後で編集する手はずだ。
 フェイロンは、30秒間のそのシーンを、クレーン・カメラで一発撮りさせた。その演技は、助監督をはじめ、その場にいたスタッフ全員を黙らせた。言葉が出なかった。
 流れるようにとはまさにこのことだ。フェイロンの持つ力が初めて開放されたそのときから、彼を取り巻く環境は一変した。
 それまでにない段違いのアクションシーンが話題になったその映画は大ヒットを記録。無名の新人だったフェイロンは映画界の時の人となった。
 いろいろな所から次とお呼びがかかったが、彼にチャンスを与えてくれた助監督と、もう一度仕事をする事に決めた。それが今回の作品だ。彼はストーリーの中で、重要な役割を持つ主役に昇格した。
 そして今日、その撮影を全て終えたのだった。

「お客さん、着きましたよ」
 はっと我に返る。金を払い、フェイロンはタクシーを降りた。
 昼間は観光客でにぎわう公園の入り口は、高い門に閉ざされ、ひっそりとしていた。石組みの囲みづたいに裏手にまわり、狭い石段を昇る。その道は、通用口につながっているはずだ。
「世界格闘選手権」──非合法のその催しのうわさを聞いたのは一週間前だった。
 今度の映画のロケを始めてから、ずっと感じ続けていた違和感。それは撮影が進むにつれ彼の心で大きくなってゆき、ごまかしようのない感情として育っていった。
 本当にやりたかった事は、これなのか?銀幕のスターとして名をあげる事か?
 これまでの生き方全てに疑問符を投げかけるその問いは、いつしか彼の心を支配し、取り除くことができなくなっていた。
 そしてあのうわさだ。
 年に一回、香港島タイガーバーム公園で行われる謎の格闘試合。全ての禁じ手なしの異種格闘技戦で、勝者には莫大な賞金が与えられる。しかしこれまで、その試合に臨んで無事に帰ったものはいないという。
 うわさは真実味を帯びていた。というより、フェイロン自身がそう思い込んだだけかもしれない。
 カンフーに明け暮れたこれまでの自分。自分自身を表現する最も効果的な手段として選んだアクションスターの夢の実現。
 俺の体は何を欲しているのか。もう一度、体に問う機会が得られるなら……
 迷い、といえるのかどうか。もてあますいらだちと焦りが心を支配し始めた時、その「知らせ」はやって来た。それが、彼に今の行動をさせている。

 通用口の門を開ける。公園全体に漂う「気」を、フェイロンははっきりと感じた。そして確信した。やはりうわさは本当だった。
 フェイロンは一枚のカードを取り出した。今朝、彼の上着のポケットにいつの間にか入っていたものだ。

 本日、虎豹別墅にて21:00より No04

 カードにはそれだけ書かれていた。
 虎豹別墅(フーバーオベッツァイ)とはここ、タイガーバーム公園の別名だ。直感的に彼は理解した。誰かが俺を誘っている。俺の事を知っているやつが、これを俺によこした。うわさは本当だったのだ。
 石畳の上は寒風にさらされていた。青白い月が、白い舞台を照らす。
 不意に声が響きわたり、フェイロンは思わず身を固めた。
「これより、試合を行う!」
 闇の中にいくつもの視線を感じた。ただならぬ闘気がうず巻いている。
 やおら、舞台の向こうから一人の男が現れた。男は公園の建物が落とす月の陰に隠れ、よく姿は見えない。
「……すでに招待券は見てもらったと思う。本日の勝者は1名だけ選ばれる。その者には、次のアジア大会への参加が認められる。試合はカードの番号順に行う。1番と2番は前へ!」
 その声に応じて、舞台の両端から2人の男が飛び出してきた。一人は道着をまとった小柄な男、一人はジーンズにTシャツの長髪の男だ。互いににらみ合ったまま動かない。
「始め!」
 フェイロンは2人を凝視し、耳を澄ませた。
 拳どうしがぶつかりあう鈍い音だけが響く。耐え難い緊張感で息が止まる。
 勝負はあっという間についた。長髪の男は身もだえして石畳にうつぶせていた。
 目で追うのがやっとの動きだった。こんなやつらがいたのか。こんなやつらと、俺は闘うのか。俺の技はやつらに通用するのか……?
 上着を脱ぎ、深呼吸をする。全身に気がみなぎる。
 心の中にあった若干の躊躇も葛藤も消え去った。自分自身の強さを証明する。そうして俺は生きてきた。何も恐れる事はない。強さの証明こそ、俺自身の人生の証明だ!

「次、3番と4番、前へ!」
 ひらりとトンボを切り、舞台へ飛び降りる。
 彼には今、どんな強靭な敵が現れようとも絶対に勝てる自信があった。恐れも戸惑いも、微塵も感じない。
 全てに勝つために、フェイロンは走り出した。