その男が『闘い』というものを捨ててから、もう何年の月日が流れただろうか。かつては真っ赤な道着
に身を包み、さっそうと世界中を暴れ回ったこの男も、今ではそのころの面影がまったく感じられぬほど、
全身から闘士というものが抜け失せてしまっていた。何が彼をこうまで変えてしまったのだろう?闘うこ
とへの恐怖か?敗北から来る諦めか?それとも自分の限界を知ってしまった絶望か?否、彼の場合はその
どれにも当てはまらないし、おそらく余人には本当の理由を知ることはまず不可能であったに違いない。
なぜならその男、ケンはまったく予想だにしなかった敵と遭遇し、その魔力に魅入られたのだから。
 その強敵は『恋』という名の、誰にも防ぎ得ない魔物であった。
 数年前、ひときわがっしりした体格の男が、アメリカの小さな港町にたどり着いた。
 肩にかけた赤い道着、それを結わえたブラックベルト。一目見て格闘家であることがわかるこの男は、
名前をケンといった。彼は日本での10年以上にわたる修業を終え、母国アメリカでさらなる鍛錬を積む
ために戻ってきたのである。だが、母国といっても人生の大半をライバルのリュウと共に日本で送ったケ
ンには、頼るべき家族も友人もいない。それゆえにその日の午後にはもう、その真紅の若虎はあちこちの
街角で、鋭く研ぎ澄まされた牙を挑んで来るものに突き立て、叫びをあげていたのであった。
 しかし、その闘いの日々は長くは続かなかった。ケンの力が衰えたわけではない。ケンの内面が彼自身
に疑問を呈したからであった。それはある日、唐突に、まさに唐突にケンの心の隙間に飛び込んできた。
そんなに格闘技を究めてどうするんだい?おまえは今の生活に何の疑問も感じないのかい?それは一度振
り払えてもしつこくケンにつきまとい、日を追うにしたがって無視できないほどに大きくなっていったの
である。そしてついには無気力に支配された暗黒の世界に、ケンを引きずり込んだのであった。いつもの
ケンならばその程度のスランプは持ち前の性格で切り抜け、そしてまた後は何事もなかったかのように闘
うことができたろう。だがそのときに限ってケンは、先にイライザという安らぎを知ってしまったのであ
る。
 イライザは、ケンが今まで認識したことがないような不思議な感情を抱かせた初めての女性であった。
彼女といるときは不思議と例の無気力な気持ちにはならなかったし、逆に心が澄みきっていくのが、手に
取るように分かるほどさわやかな気分になれるのであった。
 しかし、同時にそれは今までの血と汗に塗られた世界に戻るのを思いとどまらせるのには、十分すぎる
ほどの力を持っていたのである。そのために、かつて闘いに明け暮れた日々はもう完全にケンの記憶から
消え、その代償にケンは平穏だが甘美な生活を手にすることができたのである。
 だが、一度ファイターとして名をあげた者に永遠の安息などありはしない。ケンにとってもそれは例外
ではなく、イライザとの生活は一通の手紙によってもろくも崩れ去る運命にあったのである。
 その手紙の主は幼少のころからのライバル、リュウからの挑戦状であった。ケンは書面を読むより早く、
リュウと別れの後に交わした約束を思い出していた。『互いに強くなったとき、再び会って闘おう』とい
う約束を。
 手紙を読み終えた男の目は、もう柔弱なものではなくなっていた。虎として、格闘家としてのそれへと
戻っていた。そしてその男は今までの生活を恥じるがごとく、黙然と特訓に打ち込み始めたのである。
『待ってろよリュウ!オレは、オマエがライバルと見込んだだけの男に、必ずなってみせるぞ!』
 …そして、港町に再び挑戦相手を求める真紅の虎の姿があった。

※闘士……闘志じゃないのかなぁ?